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服飾方法論

ライフスタイルを包括的に考える

体育会系の風土に毒され,気が付けば涼しくなってきた

実は,僕はゆとり世代のど真ん中で教育を受けてきた。

気が付けば,小学生の途中から,土曜日の授業は無くなっていたし,真冬とは言え辺りがまだ暗くなる前には学校は終わっていたように記憶している。

そんな「ゆとり」世代の僕らは,もちろん後輩も先輩も含めて,軒並み社会に出揃ってきた。

ゆとり世代の僕らが足並みをそろえて社会に出てみれば,上司からゆとり勤務について聞かされるようになった。

 

ワークライフバランス」,「福利厚生」,「ホワイト企業

 

まあ,そうしたアイデアが実態を伴って所望されるのは間違っていることではないと感じる。これをゆとり勤務だのといいつけて囃し立てるのは,自分たちがそうしたことが許されない時代に,社会に育ったからなのではないだろうか。

 

このご時世,ゆとり勤務世代の働き方の根本には,「自らの生産性にとって支払われる対価としての給料」があるものだと考えている。いや,そうであるべきなのだ。

ノマドワーカーもフレックス勤務も,点で散らばっているような比較的新しい働き方の概念はすべて,生産性の対価としての給料というベーシスでもって連続であるのだ。

しかしながら,それを認められない人々がいる。

もちろんそれはコンサバでありがちな日本人の国民性に依拠するものなのかもしれないけれど,たいていの50代の正社員は新しい働き方に疑念を拭えないでいる。

「だって,俺が若い時は...」

そういって昔の話をする時は,破天荒で,根性があって,打たれ強いエピソードが多い。そして「今の若い奴は...」で締めくくるのが常套手段なのだ。

彼らはそうして出世してきたし,自分にできたことは,少なくとも自分の下に置きたい奴には,それを求めている。

 

「破天荒」,「根性」,「我慢」

 

この3つの概念でもって担保されていた彼らの働き方の根底には,「我慢していた時間にとって支払われる対価としての給料」があるはずだ。

これはあくまでも仮定であって,実証するための方法論はただ一つなのではないかと思っている。

 

はげるかどうか

 

これが先の仮定を真であると見做した場合の結果になる。

 

だから,20年後

ゆとり勤務世代が50代に突入するかしないかぐらいのときに,僕たちがどれだけはげているかを確認してほしい。僕は確認したい。

彼らの働き方は間違いなく,精神的にどこかストレスを感じていたはずだし,それが結果としての脱毛へとつながっているのだ。

 

不幸にも,ゆとり世代の毛根は決してゆとりある生え方をせず,彼らはゆとりのない働きをしてきたのにも関わらず,毛根がゆとりを持ってしまったのだ。

 

何とも皮肉な結果になってしまったのだろうか。

 

そして,こうしたわけのわからないエントリを書き終えて,僕ははげないように,その日の汚れはその日のうちに落とすことにする。