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服飾方法論

ライフスタイルを包括的に考える

国際女性デーに抱いた違和感

 もう,少し前の話になるけれど3/8は「国際女性デー」であった。ご存知の方も多いと思うので軽く説明だけすると,1904年にアメリカはニューヨークで発生した女性労働者による婦人参政権を要求したデモにルーツを持つ国際的な記念日のことである。

 日本においても女性の働きやすい社会を目指している流れなどもあって,ここのところニュースになりがちであるように感じる。どうやら毎年,なんらかのテーマを掲げてこの記念日をむかえているらしいのだが,これについては初めて知ったことであったから,勉強不足であったと感じた。

 そんな国際女性デーにまつわるニュースを見ていて,ふと感じた違和感をここに記しておきたい。

 

「女性のいない日」を考えたとき 

www.newsweekjapan.jp

 アメリカでは人権団体「ウィメンズ・マーチ」の呼びかけによって,家庭や職場において「女性がいない日」として「料理や子育てなどの無休の仕事や,有給の仕事を休もう」というストライキ,デモが敢行されたらしい。詳しいところは直前のリンクを参照していただきたい。

 「女性のいない日」ときた。なるほど確かに,家庭内では図らずとも,あるいは慣習的に女性の占める重要性というものは比較的大きいように感じる。おいしい料理を作ってくれるし,子どもの面倒を見てくれる。学校や幼稚園などに送り迎えをしてくれることもあるだろう。ところで職場の方はどうだろうか。考えるまでもない。女性はお茶を汲んで,書類のコピーをして,受付でお客様をお出迎えするだけという時代は終わりを迎えつつあり,テクニカルな仕事にも管理職にも女性の活躍の場が広がっている。はずである。仮に古代的なワークスタイルに限られた場合を考えてみても,女性の仕事のおかげで社会がポジティブに動いていることは言うまでもないだろう。

 そんな中で,「私たちがいなくなったらどうなるかわかっているのかしら」というような悲劇的なシミュレーションを今日日行う必要があるのか。僕が感じた疑問はここであった。もしも僕たちが,すなわち男性が悲劇的に「男性がいない日」を掲げて同じ日に社会的な活動をしたらどうなるのだろう。言うまでもなく,3/8が「国際全人類デー」と称したお休みになることは間違いないだろう。まあ,そんなことを画策するような男性はおそらく,いまのところは,少なくとも僕の周りにはいないのだろうけれど。

 女性はその悲劇的な歴史から,自分たちの権利を主張し,勝ち取ってきたというバックグラウンドがある。これについては異論など持たない。しかしながら,行き過ぎたそれでさえも看過されるような社会的な迎合がちらついているところに違和感を感じたのだ。

 1年は365日で構成されている。そのうちのたった1日,3/8だけでも女性の社会的権利主張について考える機会があることは,事件的にも素晴らしいことであるとは思う。だけれども,自分たちが得てきた権利というものには責任でさえもセットになってついてまわっていることをもう一度考えてみたらどうだろうか。