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服飾方法論

ライフスタイルを包括的に考える

想像以上に自由な国,日本

 日本では,服を着て街へと繰り出す時にはほとんどしがらみが存在していない。勿論,どの街にはどういった服装が似合うかというような印象的な要素は少なからず存在しているものの,そうした不安や懸念というものは,それが沸き起こった人の内面で自動的に解決されてしまう。即ちそれらは表沙汰にはなりにくいのである。

 例えば真夏の昼下がり,ジーンズに白い無地Tシャツを合わせて,冷房の効いたグランドハイアット東京でランチにしようとする。言うまでもなく,あなたが門前払いになってしまうのは,ビンビンに起った乳首のせいではなく,単純にドレスコードによるものである。そうした事態を避けるために本能的に自己解決をしているケースが多々あるということである。ここで逆に例外とされるケースについての推論を述べておくと,それは次の2つの場合に限られるようである。

(1)洗練されすぎて,革新的なスタイルを提案する

(2)洗練されなさ過ぎて,服を必要最低限の道具としか見做していない

前者の場合の例については,ビスポークで仕立てたサイズ感バッチリのスーツにビーチサンダルを合わせる人を,後者の場合の例については,よく2chTwitterでネタにされるような典型的なオタクの服装を考えてもらえれば理解しやすいだろう。

 先に挙げた例のどちらの場合も,そのどちらにも含まれない人々から見れば批判もしくは糾弾の対象となりうるわけであるが,意識的にそれらは禁止されていない。これが日本の「服装に関する自由」を証明している。この自由をさらに強固なものにするもう1つの例を挙げておく。(1)に含まれる人々が試験的に提案したファッションが流行になりうる。もしくはそれをよりジェネライズしたものが流行として提案されること。加えて,(2)に含まれるようなスタイルが部分的にモダナイズされて新たな領域,流行または傾向として提案されるということである。

 誰が何を着ているのか,誰が何を着ていたのかという根本的事象には一切触れることなく,それが不可視的なバイアスを何回も通されることによって,すべての人々がすべてのファッションに,スタイルに挑戦できる。やはり暗黙的な自由が日本に浸透していることは間違いではないだろう。