服飾方法論

ライフスタイルを包括的に考える

ファストフードのような日本語に毒されて

 SNSの発展と,Weblog関係のサービスが多様になってきたことで「話し言葉」と「書き言葉」とがミックスされてきている。

 実際に,TwitterのTLを眺めて見て欲しい。驚くべきほど顕著に,こうした状況を確認することが出来るであろう。ここのところ数年間で急成長を遂げて,大きな盛り上がりを僕たちに見せつけているnoteだって,あたかもプレゼンテーションを一字一句の漏れさえもなしに書き起こしたような書きぶりになっている。

 Twitterに関して言えば,そのルーツとなるところが「つぶやき」であり,それはまるで鳥がさえずるような様である。すなわち,「話し言葉」が「書き言葉」としてシェアされることが前提となっている。だからこそ,致し方がないと考えて見過ごすことは,まあ容易である。しかしながら,Blogでそのような言葉遣いはいかがなものなのだろうか。

 まるで,知識も実績も不透明な一般人が声を大にして,すべての事柄をターゲットにして意見を主張することが出来る。どこの馬の骨かもわからないような人物の,何を根拠にしたのか不明な文章を浴びるように伺うことが出来る。寧ろ,そうでない文章を伺う機会が大幅に減少しているのかも知れない。

 橘玲が人間の成長に大きく寄与するものは「環境」ではなく「遺伝」であると主張している。ここに議論の余地などなく,確かに遺伝によって人間の成長に係る殆どすべてが決定されているであろうことは,彼が拠出した科学的な根拠によって保証されている。とはいえ,彼自身も「環境」の寄与率が0であることを示すことが出来ていない。即ち,少なからず「環境」は人間の成長に,少しだけ広義に捉えて人間それ自身に影響を及ぼすということが言える。

 内容の妥当性が評価されずに,さらには文体までもが最早粉々に砕かれた今日の文章に浸かっていれば,どこかしらに悪影響が出てくることは間違いないのではないか。それは,思考するプロセスに悪影響を及ぼすのかもしれないし,アウトプットの質に悪影響を及ぼすのかもしれない。実際のところ,僕自身は物事を表現する力に不安を感じるようになってきた。恥ずかしながら,類語なんて十分にストックできていない。これが遺伝を原因に持つものだとして片づけることは容易であるが,最初に述べた環境を原因に持つ可能性を捨てきることはできない。言うまでもなく,後者の線を疑ってさえいるのではあるが。

 もう10年以上も前の映画を引き出すことには,少なからず抵抗があるが,アメリカで公開された「SUPER SIZE ME」をご存じだろうか。監督が自らの身体を被検体として,30日間に渡りマクドナルドの食品を食べ続けるというドキュメンタリー映画である。結果として,実験が終わるころには彼の身体に体重増加,性欲減退,肝機能障害などの悪影響が表れた。この映画は,ファストフードに依存する現代の食生活について警鐘を鳴らしたことで,結構なヒットを遂げたのだ。

 今日,日本の文章を取り巻く環境がここに収束していきそうな気がしてならない。言わば,質の悪い文章にこれまでよりも多く触れることで,我々の文章の絶対的な質が右肩下がりに減少していくのではないかということである。

 背景やコンテクストが言語化されず,必要であるはずの情報は補われておらず,話し言葉と書き言葉とがブレンドされ,「やばい」という1単語で大抵の感嘆的な表現が賄えてしまうような環境を良しとしていいのだろうか。

 いま一度,古典的なアプローチで日本語を勉強し直す必要がある。これこそまさしく,僕が皆様に伝えたいメッセージだ。

 何より,このメッセージをBlogの記事を媒介して伝えている。自らの首を締めあげる皮肉な状況に流す涙もないのである。ポテト食べたい。